澤田みづえの音楽活動ブログ

野島 稔先生 謹んでご冥福をお祈り致します

高校から大学、そして留学から帰国し、ピアニストとして活動していた時まで、私が師事していた野島 稔先生が先日ご逝去されたと知りました。

先生との出会いは、高校1年の時。故海老原直美先生に連れられて、”野島先生にこれからみていただけるか?というご判断を仰ぐ、レッスンという名のオーディション“に連れて行かれたのが最初でした。

その時に、”演奏の力量”は当然のことながら、”先生からいただいたアドバイスを的確にとらえ、その場ですぐに直すことが出来るか?”や、”先生の仰っている意味を正確に理解することが出来るか?””音楽の方向性は先生の思っている方向に向かっていきそうか?”…等々、様々な事を野島先生が判断され、この子は長期的に見ることが出来ると判断した場合のみ弟子として取ってもらえるというシステムでした。

なので、先生に『今日連れてきた子(私のこと)は見るよ!』と仰っていただいた際には、海老原先生が『野島先生に気に入られるということは、本当にすごいことよ!あなたの日頃の練習が報われたわね!』と、とても喜んで下さっていたことを覚えています。

その時はまだ私も子供で、先生の凄さが分かっていなかったのですが、海老原先生のその喜びように、すごい先生に出会えた!これからさらに、自分にとって新しい音楽が切り拓けていけるかも!とワクワクした気持ちが芽生えたのを覚えています。

それから始まった野島先生のレッスンは、それまでに著名な先生の公開レッスンを受けてきた私にとっても、最も緊張に満ちたものでした。

当時、NYを拠点としていて、日本に帰国されている日数の方が年間通して少なかった野島先生。

たまに帰国したタイミングで、『明日、レッスン出来るけど来れる?』と突然電話があるという感じでした。常に自分を高めておかないと、突然あるレッスンに対応出来ないため、練習の焦点も必然的に”野島先生のいつになるか分からない帰国の時”という感じになっていました。

レッスンは、気を張り詰めている状態の連続。意識が少しでもそれると、先生は即座にそれを見抜く鋭さがあったので、演奏の時だけでなく、いっけん雑談のように感じられる会話の一つ一つでさえ、先生の前では気を抜かないようにしていました。

先生は聡明で頭が良過ぎるくらいの方でしたので、私もその頭の回転についていかないと!と、とにかくいつも必死でした。

レッスンの時に私が演奏している間は、厳しい目でじっと手元などを見つめて、演奏が終わった後は暫く無言だったり、『うーん…』と仰ったまま又黙ってしまわれたり…。。と、重苦しい空気が漂うことは多々あり、先生の沈黙の後のその次の言葉を待つのが私は苦手でした。

ある時は『君の最初の1小節目の第一音めが気に入らないんだよね!』と仰って、冒頭の第一音をひたすら私が弾いては、先生が『違う!』と言って、また弾いては『違う!』と言われる…。

結局、『そうそう、その音だよ!』と言われるまで2時間かかり、それだけでレッスンが終わってしまったり。(苦笑)

それほどまでに、たった一音、されど一音という演奏家の追求すべき事について厳しく指導されました。

先生は作曲家の魂みたいなものから逸脱する、ひとりよがりな演奏をとにかく嫌い、楽譜に書いてあることに忠実に、作曲者の意図に寄り添って常に理解しようとすること、そしてそれを演奏家が真摯に表現しようと努力する事…それが大切だと常に妥協する事のない指導で教えていただきました。

そんな厳しい指導の先生でしたので、時には本番3日前のレッスンで、最初の私の演奏の後無言が続き、

『…君さ、この練習って一日どのくらいやってるの?』と、

言われ…

『今は12時間くらい弾いています』と、

答えると

『…そうかぁ。君のやってきたことは今回は残念ながら方向性が違うから、今回の本番の出来は諦めた方が良いかもしれないね!

などと、非常にサクッと言われたことがあります。(笑)←もうパニック!

その時は野島先生に師事して既に数年経過した時で、歯に衣着せぬ厳しい指導にも耐性がついていた私ですが…本番3日前のそのコメントはもう私の音楽人生が終わった…という思いと、それまで心身共にすり減らして練習してきた結果がそれか…と自分が情けなく、その帰りの電車で人目も憚らず号泣が止まらず。先生のご自宅からの帰路の3時間、ずっと泣いてる。。

その後、その頃にも下見で引き続きお世話になっていた海老原先生に即電話をして、

『私、ピアノをやめます!大学もやめます!』と、言ったのですが…

『何言ってるのよ!野島先生のおっしゃっていることは高尚すぎて、私たちでさえ直すのは時間がかかるのよ!気にせず自分の音楽を最後まで追求しなさいよ!』と、

喝を入れられ、同時にかなり慰められた経験もあります。。

しかし、そのあとの後日談なのですが。

なんとか冷静さを取り戻し、先生からアドバイスを受けたことをヒントにして、考え、自分なりに答えを出して練習した結果、それから三日後の実技試験では自分史上最高点で終える事が出来ました。

その時先生が仰られていたことは、全ての音楽に共通して言える確信についた一言でしたので、私の音楽人生はそこからガラッと変わったと思います。そして、この出来事が私の今の指導の原点にもなっています。

ピアニストとしての活動がお忙しく、その頃はあまり人に教えるのは好きではないと生徒にも(笑)仰っていたこともあり、高校から大学までを通して一つの学年につき多くても1人しか弟子は取らないという生粋の音楽家であった先生。

おそらくそれ以上の人数になってしまうと先生ご自身の練習のお時間が取れないというご判断だったのだと思いますが、4人〜5人ほどの生徒数しか常にいないのに、他の学年の生徒はよく入れ替わっていたのでせっかく仲良くなった後輩がもう次の月にはいないなどということは、よくありました。(すぐに先生が『あの子は僕の言っている事を理解するのが遅いからクビにしたんだよ』『あの子は、打っても響かないから、僕が一所懸命に指導したところで成果が出ないって判断したからクビにしたよ』と、少し違うと感じただけで潔く弟子をクビにするためでした…)

先生は、私へも常に厳しく接して下さったのですが、あまりにも厳し過ぎる⁈という時はそっと下見の海老原先生がレッスン後に野島先生にお電話をして下さって、野島先生の意図する事を聞きだす…という連携プレーのような形で支えてくださいました。(故海老原先生ご自身も東京音大の准教授というお忙しいお立場だったのに、3回に2回は私の野島先生のレッスンのたびに一緒に来ていただいていました。。今思うと、なんて贅沢な時間だったんだ…)

その時に、野島先生がお話していたというのが、

『あの子(私のこと)は、芯がとても強く頭がすごく良いよね!だから僕が強く言っても大丈夫!僕の言った事を今頃きちんと理解しているよ。見ててごらん!絶対今回ものしあがってくる!』

と。。

先生は、私のことを信頼してくださっていたんだと思います。今思うと、有り余るくらい、勿体ない言葉。ありがたいことです…。

さて。

↓こちら↓は、youtubeに元々上げていた王子ホールでのリサイタル動画ですが、この本番の前にも野島先生に聞いていただいて、太鼓判を初めて押していただいたと感じた演奏です。

宜しければご視聴ください。

野島先生は普段は”うまい”とか”下手”とかそんな抽象的な言葉はけして使わない方ですが、この時のレッスンでは、

『君、留学を経て成長したね!!うまくなった!!』

と、ちょっとはにかんだ笑顔で言ってくださった…そして、私、うまいという表現にかなり驚いて固まる…(笑)

という思い出がある、そういった意味では私にとって先生から一演奏家として認めていただき、背中を押していただいたと感じ心底自信を持って挑めたリサイタルです。

先生ご自身は、リサイタルの前に手首や腕の骨に怪我を負っていたことにもご自身や周りも気づかず、いつもと少しも違わずに精巧な技術で安定した演奏をやってのける紛れもない大天才です。

しかし、いつレッスンに伺ってもご自身の練習をされている、努力の方でもありました。私は野島先生に出会わせて下さり、成長させて下さった故海老原直美先生にも、野島先生にも心より感謝しております。

この先生方には、いつも厳しいながらもあたたかい目で見守っていただき、常に音楽家としての本質を問い続けていただいたレッスンのおかげで今の自分があります。

いつも背中を押していただいた先生が亡き今、こんな歳になっても尚、不安は尽きないですが、師事した先生方の名に恥じない音楽家であり続けたい。そのために私はこの道を進み続けなければならないと思います。

先生、長い間大変お世話になりました。

謹んでご冥福をお祈り致します。

合掌